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1998年11月−12月

ダマスカスの秋

1998年11月半ば、再度、ダマスカスへ出張した。酷暑の夏場と比べればもうすっかり涼しくなっていた。あの夏の暑さはなんだったのだろうかとすっかりそのことは忘れて秋の空に見入ってしまった。 ローカルスタッフの面々は変わらず、ドライバーも同じ。みんなの笑顔が懐かしかった。シリア人は非常にホスピタリティに溢れている。

メイサードのアパート住まい

前回まではラブリーなオマールカイヤンホテルに泊まっていたが今回はアパートを借りることにした。アルヌース広場からやや北、フットボールグランドが正面に見える比較的新しいアパート群の一角。3物件ほどみて一番まともなこのアパートに決めた。家賃は、一ヶ月1000ドルだっただろうか。大家はパレスチナ人でアンマンに移り住んでいたので、入居が決まるとアパートの使い方を教えにわざわざアンマンからバスでダマスカスまで出てきた。

アパートは非常に広く、ダイニング、2リビング、3ベッドルームと2トイレ、バスがあった。 シリアではこれが標準なのだろうか。日本の住宅事情など恥ずかしくて話せないほど立派だった。寒くなる季節だったのでセントラルヒーティングも確認、 ヨーロッパと同様温水をパネルにサーキュレーションする輻射熱タイプ、燃料は1階のタンクに入れる。

アパートに住むには、公的な手続きが必要だった。先ずダマスカス市役所へ行き契約の承認を得て、それから管轄の警察署で登録し、黄色い登録カードを受け取る。これは警察が住民若しくは外国人を管理しているということだろう。

帰国するときも大家はアンマンから出てきて鍵を受取に来た。非常に親切なパレスチナ人で、アンマンへ来たら是非よるようにと連絡先を書き残してくれた。それから、このアパートを買わないかとも持ちかけてきた。円貨換算で1500万円程度ではなかっただろうか。

なぜか荷物が届かないパリ経由

ほとんどの調査団員がパリ若しくはロンドン経由でダマスカスへ着くのだがなぜか誰かの荷物が着かない。今回の調査で私が同行したフライトで何も起こらなかったことは無かった。特にパリ経由の場合が多かった。帰国するときも同様、誰かの荷物が遅れて届いたりした。

インターネット接続事情

シリアにはアクセスポイントが無くプロバイダーも無かった、それゆえ、プロジェクト事務所からヨーロッパへ国際電話を掛けてメールをダウンロードした。ベイルートへの電話は国際電話ではなく、長距離電話になるためこちらのが安かろうと思い接続を試みたが、繋がるものの非常に遅い。アンマンも試したがつながりが悪い。それで、ウィーンへ接続したらこちらのが調子が良い。それ以降、定期的に国際電話を使ってインターネットへアクセスした。

シリア人とメンタリティー

今回の調査でローカルスタッフ、カウンターパート、ドライバーなどを含めてプロジェクト事務所には毎日10人程度のシリア人が出入りしていた。人種・宗教の構成は、イスラム教スンニ派、イスラム教アラウィ派、キリスト教、人種はアラブ人とゴラン高原出身のコーカサス人(彼らはそう表現した)だろう。アラブ人でもアラウィ派は、フェニキアの末裔のような金髪で青い目だった。

みんな人の良い人たちでホスピタリティに富んでいたことは間違いないが、今回の調査を通して感じたことは、シリア人は素直な反面、センシティブであり、フラジャイルあることを多くの局面で感じた。一枚岩ではなく、それぞれが意見を持ち、その調整に時間がかかることもわかった。話し合えばリーズナブルなほうへ耳を傾けてくれる。

調査大詰め

ほとんどこれまでの調査のまとめのような仕事をした。これhがかなり労力を必要とした。これまでは、少しくらい抜けていてもやり過ごしてきたがドラフトファイルレポートをまとめるにあたってはそうは行かない。一つ一つ数値や情報を確認していった。シリア人スタッフに任せて置いた箇所は特にファイルの所在などを明確させたり、修正させたりした。

ダマスカスよーエリサールで打ち上げ

1998年末、都市交通調査の現地調査アサイメントが概ね終了し、日本でのドラフトファイナルレポートの作成、ファイナルレポート提出時のセミナーを残すのみとなった。

現地調査の最後、調査に係わったローカルスタッフを全員、オールドダマスカスのレストラン、エリサールへ招待した。

ダマスカス市から感謝状と粗品が贈られた

この時、調査が完全に終了しているわけではなかったが、カウンターパートであるダマスカス市及び内務省から、現地調査の終了に際して感謝状と粗品が調査団員へ贈られた。感謝状は額に入れ、私の部屋の壁に掛けてある。また、粗品はダマスカスの寄木細工のような木製のケース、重要書類要れとして使っている。

このときのカウンターパートであるマムーンはその後、交通技術部長を退任したと聞いている。内務省の警察官であったファルーク・ムセリはダマスカス交通警察署長へその後昇進した。

帰路ダマスカス−ウィーン−成田

調査団の引き上げにはかなりの荷物となる。ドラフトファイルレポート作成のための資料は膨大で、個人お荷物と合わせて絶対エクセスを支払うこととなるだろうと予想していたら、シリア人のスタッフがOS(オーストリア虚空)に知り合いがいるといい、あっという間に全てエクセスなしでチェックインできてしまった。ウィーンからはANAだったが、荷物の件で当然といえば当然なのだが、ウィーンをスルーで流したので、クレームが来た。その内容は、既にダマスカスでチェックインしてしまっておりかなりオーバーしているが、計ることが出来ないので今回に限りエクセスはチャージしないとのことだった。

12月中旬のウィーンは、零下1度前後、そんなウィーンでささやかな打ち上げをホテル近くの地下のバーで行なった。その後、ウィーンの町を歩いた。1時間も歩いただろうか、さすがに身体が冷えてきたのでホテルへ戻ることにした。ヨーロッパの町並みはいつ来ても飽きない。

ANA Grand Hotel Vienna

ホテルは、ANAグランドホテル、リンクに面し、楽友会館の前に位置し、横はウィーンオペラ座という一等地だった。ホテルの質は高いものの、レセプションでは列が出来ていたのでどうしたのかと思い覗き込んでみると、レセプショニストが慣れていない。どうやら日本語を話すが韓国人か中国人のようで、日本人客の処理に戸惑っているようだった。

客室は家具調度類がクラッシックなデザインで統一され、ベッドの寝心地が非常に良かった。ANAさん、どうもありがとう。

翌朝、少し時間があり、WMF専門店で鍋セットとヘンケルの包丁を購入、ダンボールごとかなりオーバーしているスルーの荷物に追加した。