Damascus
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夏のダマスカス

夏のダマスカスは、内陸に位置している関係から乾燥し暑い。40度近くまで気温が上がることがある。 そんな、暑い夏はどう過ごしているのだろうか?ダマスカス旧市街、邸宅の中へ入ると暑さを和らげるため 中庭には噴水が配置されている。(1998年7月)

旧ダマスカス市役所の中庭
(Maktab Anbar)
ダマスカス市文化財部の中庭

旧ダマスカス市庁舎(Maktab Anbar)

真っ直ぐな道の途中を東門へ向かって左へ折れる。そこには、Maktab Anbarという18世紀、オットーマンハウス、ユダヤ人商人によって建てられた旧ダマスカス市庁舎がある。コートヤードが2つあり、奥のコートヤードは静寂のあるこじんまりとした空間となっている。そのコートヤードに面した会議室の内装はレストレーションが施されアラベスクモザイクも洋画前面に広がっている。

アナニヤ教会(CHapel of St.Ananias)

東門の左手、パウロにまつわる新約聖書使徒行伝に縁の教会がオールドダマスカスのキリスト教地区にある、「パウロの回心」ゆかりの古い教会、

この道を西へ、アナニヤが歩いた。天の光に打たれて目の見えなくなったパウロを救うために。迫害者パウロが改心する、新約聖書の中の有名な場面だ。

聖パウロ教会(St.Paul's Chapel)

そして、キリスト教徒となったパウロが迫害を受ける側になり、城壁をカゴで吊り下げられて脱出して難を逃れたといわれる場所には、聖パウロ教会がある。

サラディーン廟(Mousoleum of Sayf ad Deen)

Sala-h-al-Din 、サラーフッディーン(英語表記ではSaladin)(1138年 - 1193年3月4日)は、セルジューク朝治下、現在のイラク北部のティクリート出身、クルド民族でエジプト・アイユーブ朝の始祖。代官であった父の異動により8歳からエジプトで権力を確立する30歳代前半までをダマスカスで過ごす。

1163年、十字軍が下エジプトへ侵入し、上エジプトへ逃れたファーティマ朝の総督からダマスカスの君主であるヌールッディーン(ザンギー朝の西半分を相続)へ援軍要請がありエジプトへ介入する。サラーフッディーンの叔父がヌールッディーンの重臣を務めていたことから同伴して各地を転戦した、エジプト遠征にも参戦している。

叔父シール・クーフの死後、軍権を引き継ぎ、ファーティマ朝の宰相に就き、エジプト全土を掌握するとサラーフッディーンはアイユーブ朝を興した。そして、主君ヌールッディーンがダマスカスで没すると幼い息子サーリフが即位したが情勢が流動化し、ダマスカス宮廷はサラーフッディーンへ援軍を要請、この機会にシリアへ遠征しダマスカスへ無血入城、数年ぶりにサラーフッディーンはダマスカスへ帰還、エジプトに加えシリア南部を接収した。

そして、イクター地(カリフやスルタンから授与された分与地、軍人に分与地からの徴税権を付与)や騎士などの諸軍を整備して王朝の軍事力を高めた。1187年、エルサレム王国を攻撃し、5月にクレッソン泉の戦いでテンプル・聖ヨハネ両騎士団を殲滅し、7月にヒッティーンの戦いで十字軍の主力部隊を壊滅させたのち、エルサレムを同年10月までに奪還することに成功した。

1189年、イングランド王リチャード1世が司令官とする第三回十字軍が攻めてくる。1192年、敵の猛攻に耐えながら十字軍と休戦条約締結に成功した。これにより、エルサレムをはじめとする広大な領土が、アイユーブ朝の領土として確定するとともに、十字軍も往時の勢いを失うこととなった。精根尽き果て、翌年、サラーフッディーンはダマスカスにて病死した。「サラーフッディーン廟」は、世界最古のモスクといわれるウマイヤド・モスクに隣接する。